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立ち小便について

子供のころから立ち小便が苦手だった。

記憶を辿ってみると、幼稚園のころ家のトイレで立ちションに失敗して、盛大にばらまいたことを思い出した。
人生の初期からこんな記憶が残されているぐらいだから、その後ずっと苦手だったのも無理はない。

小便を便器内に上手く射出するという技術的な意味でも苦手だったし、何よりも小便が跳ね返ってくるあの感覚が大嫌いだった。
子供の頃はよく半ズボンをはいていたから、素足に跳ね返ってくるのがよく分かるのだ。
そんなことをいちいち気にしない男性も多いのかもしれないが、私は昔から汚く感じてしまって嫌だった。
まだ包茎のときは、よりコントロールが難しかったので最後のひとしぼりが突然足元に放たれることもあったし、勢いよく出しすぎて扇状になった小便が便器から外れてしまうこともあった。そんなんでズボンや靴にちょっとでも小便がついてしまうと、トイレから出たあともそれが気になってしまって仕方がなかった。昔からそうだった。

小学生の頃は、トイレに関しては苦痛の記憶しかない。
今でもそうなのか分からないが、私の時代は男が大便の個室に入ると、それがすぐに一大ニュースになって教室に広まっていた。
これは今でも本当に不思議なことなのだが、小学生の男子は学校で大便をすることをとても恥ずべきことだと考えていた。
一度どうしても我慢できなくなって大便をしていたときなど、後から入ってきた同級生がすぐに
「ウンコしてるやつがいるぜ!」
と叫ぶや否やドアをよじ登って中を覗いてきたことがある。(いじめとかではなく、中で誰が大便をしているのか知りたがっての行動である。彼らにとっては、学校内で大便をしている男がいるということが、それほどセンセーショナルなことだったのだ。)
そんなんだから、男子は大便の個室に近づくことすらしなかった。
トイレに行く、といえば、それすなわち立ちションをしにいくということなのである。
だから小学校にいるときの私は、苦手な立ちションをずっと続けなければならなかった。
この頃から、家ではずっと洋式トイレに座って小便をするようになっていた。だから私にとって立ちションは、もはや学校や屋外で尿意を催した際に仕方なく行う非常行動になっていた。

一度小学校でこんな光景を目にしたことがある。
他のクラスの、誰かは知らないが同級生二人がトイレで小便をしていたのだが、その一人が放尿したままあとずさりして便器から離れていった。小便がどこまで届くか試して遊んでいたのだ。勢いが弱くなると慌てて戻ろうとしていたが、すこし外れたようで、隣の同級生が「汚ねー!」と笑いながら叫んでいた。
小便は汚いもの、ちょっとでも外してしまったり、体にかかってしまったら不快なものだと思い込んでいた私にとって、この光景は衝撃的だった。
人間は、他者と関わり合うなかで、自分の価値観や、教えられてきたものが決して絶対的で普遍なものではないということを覚えていく。まだ狭い世間で生きている子供のころなどは、なおさらそれを顕著に味わうことになる。
このぐらいのころから、私は自分が他の人より少し感じやすい性分なのだと思うようになっていった。立ちションを通じて。

中学に上がったころから、学校で大便をすることにあまり抵抗を覚えなくなった気がする。
思春期を迎えて、皆自分自身のことに押しつぶされそうで精一杯の時期(私はそうだった)だから、他人の大便など気にかけなくなったのだろうか。ウンコチンコと大声で叫ぶのが楽しい時期を卒業したからかもしれないし、そもそも学校に拘束される時間が長くなったから、必然的に大便をしなければやっていけなくなったからなのかもしれないが、ともかく中学以降は大便に入れるようになっていたと思う。
もちろん、多少の気恥ずかしさはあったから、コソコソと人のいないタイミングを見計らって、ではあった。だから、小便するためにわざわざ大便に入ることはまだ女々しく感じられて、立ちションは続けなければならなかった。
だけど、この頃はもう包皮を剥くことができたし、長さもある程度まで成長していたからあまり小便を外すことはなかった。それに体も成長していたから、足を大きく開けば尿がかかることを多少軽減できるようにもなった。だから私は、以前ほど立ちションが苦手ではなくなっていた。
この時期はむしろ、放尿よりも四六時中勃起するチンコそのものとどう付き合っていくのかということに、常に悩まされていた。

思春期の臭いも遠いものとなった現在、大人と呼ばれる年齢になった。
今でも立ちションは苦手である。
小便しかしないときでも、基本的には大便スペースに入って座ってする。
たまに会社で「ウンコ多いっすね」などと言われることもあるが、真顔で下痢気味なんだと返すと、それは大変ですねみたいな顔をされてそれでおしまいである。自分自身がクソみたいな男だということを嫌というほど思い知らされてきたから、今更ウンコマンだと思われても気にならない。ああそうだよ俺はウンコマンだ!と叫びたいぐらいである。小学生時代の自分にこのことを教えてあげたい。
余談だった。
大便用に人が入っていたり、座る時間すら惜しい時は立ちションもするが、もうほとんど外すことはないし、昔ほど小便がかかることに敏感ではなくなった。
ただ、最近になって新しい悩みができてしまった。隣に人がいる状況で立ちションしようとすると、なかなか出ないのだ。
私は映画館によく行くのだが、映画が始まる前に必ずトイレにいくようにしている。小さいトイレだと人でいっぱいになるので、当然大便用が空いていないことが多く、仕方なく立ちションをすることになる。満員だから隣には同じく立ちションをしている人がいるのだが、それが気になってしまうのか、よほど膀胱がいっぱいになっていないと小便がでないのだ。
昔からパーソナルスペースが広いのは知っていたが、この現象には本当に困らされている。
なかなか小便が出ないと、隣で同じくらいにやり始めた人はさっさと出し終えて去っていくし、周囲から変に思われないかとか余計なことを考え始めてしまうとなおさら尿意が引っ込んでしまう。そうなるとなぜか余計に周りが気になりだして、隣のオッサンが便器からちょっと離れて小便していたり、出し切った後に豪快にチンコを振り回していると、こっちに跳ね返ってきたりはしないかとか、変なことに意識がいくようになってドツボにはまってしまう。周囲を気にしても仕方がないと分かってはいるから、何とか深呼吸してリラックスしてみたり、下腹部に力を入れて無理やり出してみようともするのだけど、一度こうなってしまうともう無理である。
小便が出ないまま立ち去ると、なぜか自分が不能者みたいに思われるような気がして(誰もそんなことを気にしない)、出し切った感を演出するためにわざとらしくチンコをトントン振って、フゥ~っと一息ついてからズボンを上げてトイレを出る。それでも小便をしないと気分が悪いから、また大便用が空いたタイミングを見計らってトイレに行ったりしている。こんなことをしていると非常に情けなくなってくる。
やっぱり今でも、立ちションは苦手だ。

小田原城を攻めていた秀吉が、配下になったばかりの伊達政宗に自分の刀を持たせ、小田原城を見下ろす丘の上から余裕綽々と立ち小便をした―という逸話がある。立ち小便というのは、男のシンボルをさらけ出して豪快に放尿するという、とても男性的な行為なのだ。
私はそれが苦手である。
とても男らしい性格と言えないのは分かっている。ただ、もっと何も気にせず思いのままに放尿できたらなと思ったりもする。
立ちションひとつとってもみても、子供のころから感じている世の中での生きづらさみたいなのを生理現象が体現して証明してくれているようで、苦悩とか悲嘆とかいうよりはむしろ感慨のようなものを覚えてしまう。

そんなことを考えながら会社のトイレから出ると、手を洗っていた同僚から
「お前のウンコ臭いね」
などと言われた。

ふざけるな、それは前の人のウンコの臭いだ。なぜなら私は大便用に入ってはいたが小便しかしていないのだから・・・。
そんな言葉が出かかったが、それを押し止めると、「そう?ごめんね」と軽く流してトイレを出た。
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